『ダカーポ4』の日記その21

どうにも見たはずなのに、回収されていないCGがあったので、ひょっとしたら、体験版としてすでにやっていたプロローグにあるのではないかと思い、もう一度プロローグから始めてみると、果たしてそのCGはそこにあった。

これでそら姉の抜けていたCGも回収できるはずである。

しかし、こういうときのために、やはりセーブデータは、体験版から製品版へ引き継ぎできてほしいものだ。

かくして、本編を一時中断し、もう一度プロローグをやることにしたのだが、こうして改めてやり直してみると、しょっぱなからいきなり、どでかい伏線があったことに気づく。

体験版は5月にやったので、もう忘れてしまっていたのだ。

しかし人間、何か作品を見ているとき、おおきな伏線というのは、見ているうちに、「ああ、これはあのときのあれだな!」と気が付くものなのだが、こうした小さな、でも重要な伏線というのは、たとえ期間が空いていなくても、すっかり忘れてしまう。

それでも、伏線というものは、それがあるのとないのとでは大違いで、たとえ序盤の伏線として張られたできごとを忘れてしまっても、それが回収される時には、驚きや感動が大きくなるのである。これは忘れてしまっていても、人間の無意識やなんかがそれをしっかり覚えていて反応しているからだろう。

落語のまくらにも同じような役割があって、それとなくお話に関係するものを、あらかじめ含ませていると、聞いている側がそれを無意識に覚えていて準備をするので、お話がはじまると面白さが加速するのだ。助走があるだけで、高く飛べるのと同じである。人間の意識というものは不思議なものだ。

と、こうして考えると物語を楽しむときに、話の筋やら会話やらを全部覚えようとしないでいいので、読んだり見たりするとき、大変気が楽になる。

とはいえ、私は伏線などまったくなく、いきなり追い立てられまくるような作品や、これまでのまくらと全く関係のない話がいきなり始まるような落語も大好きである。

つまり、助走なしでいきなりカタパルトに乗せられるようなものであったりとか、助走してきていざ飛ぼうと思ったら、前でなくいきなり後ろに飛んでいくような話である。通常のストーリーテリングに対するカウンターになってる側面もあるのかもしれない。

とはいえ、ちゃんと貼ってある伏線に気づくというのはやはり、発見した!という謎解きみたいな喜びがある。小説や映画を二回見る楽しみはここら辺にあると思う。

結論としては、伏線の回収など、見る側は二回目にすればよく、初見はただぼーっと見ればいいのだ。無意識が勝手にやってくれるのだから。

実に楽でいい。

これを、「らくらく全自動伏線回収理論」と命名しておこう。

そして今、本来なら無意識が覚えているので必要ないのだが、取り忘れたCGを回収するため、もう一度回収前の伏線と思しき文章を読んでいたら、意識にある疑惑がぽっかりと浮上してきた。

・・・鷺澤有里栖ちゃん、君は本当に人間なのだろうか?胸騒ぎがする。

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